僕はオープンカーが好きです。いつ頃からオープンカーを意識するようになったのかは記憶が曖昧ですが、確か僕が10代の頃だったと思いますが、雑誌か何かで布施明がオープンカーの横で写っている写真がありました。そこに写っていたのがメルセデスのSLKでした。当時はSLKが何の略か分かりませんでしたので「SLK(エス・エル・ケー)=シルク」と覚えました。それから半世紀後、気が付いたらそのSLKに乗っていました。

その布施明が歌ったのが北海道にある摩周湖です。最初に北海道をバイクで走った時も目標は摩周湖でした。この歌がなかったら中学の理科か何かで習ったマリモの住む阿寒湖で終わっていたかもしれません。
それから「ましゅう」という音です。摩周湖の摩は摩擦の摩ですが、悪魔の魔とも同じ音でしかも漢字もにています。誰が名付けたのか知りませんが、魅惑的な響きがあります。
こうして僕と車と北海道が繋がったのでした。

摩周湖(ましゅうこ)は、北海道川上郡弟子屈町にある湖。日本でもっとも、世界ではバイカル湖についで2番目に透明度の高い湖である。2001年には北海道遺産に選定された。急激に深くなっていることとその透明度から青以外の光の反射が少なく、よく晴れた日の湖面の色は「摩周ブルー」と呼ばれている。
地理
北海道東部、阿寒摩周国立公園内に位置する。日本の湖沼では20番目の面積規模を有する。約7000年前の巨大噴火によって生成された窪地に水がたまったカルデラ湖であり、アイヌ語では「キンタン・カムイ・トー(山の神の湖)」という。摩周という名の由来は「カムイシュ」(神老婆)や「マシ・ウン・トー」(カモメの湖)など諸説あるが不明(なお摩周湖にカモメは生息していない)。湖の中央に断崖の小島カムイシュ島がある。周囲は海抜600メートル前後の切り立ったカルデラ壁となっており、南東端に「カムイヌプリ(神の山)」(摩周岳・標高857メートル)がそびえている。湖内は阿寒国立公園の特別保護地区に指定されており、開発行為や車・馬・船の乗り入れは厳しく規制されている。
カムイシュ島(中島)
「カムイシュ」とはアイヌ語のカムイ(神、または神のような崇高な霊的存在)+シュ(老婆)の意といわれ、その名はアイヌの口承文学であるユーカラによりアイヌが名づけたものである。その伝説は、一般に言われるものは次のようなものである。
宗谷のコタン(アイヌの集落)同士がイヨマンテ(熊祭)の夜に争い、一方のコタンは敗れほとんどが殺されてしまう。敗れたコタンの老婆とその孫は命からがら逃げるが、逃げる道中で孫がはぐれてしまう。老婆は孫を探しながらさまようが見つからず、カムイトー(摩周湖)付近までたどり着く。老婆はカムイヌプリ(摩周岳)に一夜の休息を請い、許される。が、悲嘆にくれ疲労困憊した老婆はそこから動けず来る日も来る日もそこで孫を待ち続け、とうとうカムイシュ島になってしまった。いまでも、摩周湖に誰かが近付くと老婆は孫が現れたかと喜び、うれし涙を流す。この涙が雨であり霧であり吹雪なのである。
(wikipeiaより)

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「霧の摩周湖」(布施明)「霧の摩周湖」(きりのましゅうこ)は、布施明の楽曲で、5枚目のシングル盤レコード。1966年12月1日に発売。
1965年に、日本テレビ系ドラマ『青春とはなんだ』の主題歌「若い明日」を歌うなど、その当時のお茶の間で知られるようになっていたデビュー2年目の布施のさらなるステップアップを期すために、作詞家で讀賣新聞記者でもあった水島哲が書いた作品である。累計売上は60万枚に達した。
作曲を担当した平尾昌晃は、同曲で第9回日本レコード大賞(1967年度)作曲賞を受賞した。
日本一透明度が高い湖の「摩周湖」を舞台にした、北海道川上郡弟子屈町(道東地区)のご当地ソングとしてもよく知られている。
エピソード
作曲・平尾昌晃、作詞・水島哲、歌手・布施明の3人が揃って、平尾が住んでいた茅ヶ崎で杯を酌み交わしながら曲作りが行われた。布施のマネージャーが「海の歌はどうか」と言ったところ、平尾が「布施に海は似合わない。湖がいい」いう発想から始まり、水島が「摩周湖はどうか」と提案した。摩周湖は当時無名だったが、その魅力を水島が語ると「それはいい」と意見が一致した。酒で興の乗った水島が一行ずつ詞を書き、平尾がギターでメロディをつけ、布施が歌うという作業を繰り返し、夜中に完成したという。
本曲を発表するに際して、布施が当時所属していた渡辺プロダクションのスタッフが「誰も知らないような場所の歌なんて売れるはずがない」と反対すると、渡辺晋(渡辺プロダクション創業者)が、「都会の人間が知らないような場所だからこそ、夢が広がっていいんじゃないかい」と言い、本曲の発表を後押ししてくれたという。
本曲のレコードジャケットを撮影するために布施とスタッフの一行が、摩周湖がある北海道・弟子屈町へ向かい、展望台で霧が出るのを待ったが、一向に霧が出ず困っていたところ、下からもわもわと霧が出てきたため、ジャケット用写真を撮影したが、その“霧”は炭焼き小屋の煙であったことを布施が回想している。
弟子屈町は1992年から1996年までの4年間、「ふるさと霧の摩周湖音楽祭」を開催した。
作曲の平尾昌晃は2017年7月21日、肺炎により79歳で逝去した。同年10月30日に平尾の音楽葬が営まれ、布施は五木ひろしと共に「霧の摩周湖」と「よこはま・たそがれ」をデュエットで熱唱、平尾の霊前に捧げた。
(wikipediaより)
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